日亜対訳クルアーン写経ブログ

(出典元) 中田孝[監修]・中田香織・下村佳州紀[訳]『日亜対訳 クルアーン [付] 訳解と正統十読誦注解』、松山祥平[著・訳]「クルアーン正統十読誦注解」、黎明イスラーム学術・文化振興会[責任編集]、作品社、2014

序文

知れ、―アッラーがおまえにすべての良きことを教え給い、一挙一動において過ちから守り給いますように― アッラーに対するシルク(多神教) ―罪の中でももっとも忌まわしく、恥ずべき行為のうちもっとも汚れたこの行為からの守護をアッラーに求めます― をアッラーは決して赦し給わないことを。たとえ、前髪を掴む日(審判の日)にそれ以外の反逆行為をみな赦し給うたとしてもである。  至高なるアッラーは仰せられた、『まことにアッラーは、彼に同位者を配すことは赦し給わないが、それ以外のものはお望みの者には赦し給う』(第4章[女]48節)。また、次のようにも仰せられた、『アッラーに同位者を配す者は、空から落ちて鳥がさらったか、風が遠いところに吹きさらったかのようである』(第22章[ハッジ]31節)。また、アッラーは、ルクマーンが息子に訓戒して次のように語ったと述べ給うた、『息子よ、アッラーに同位者を配してはならない。まことに多神教ははなはだしい不正である』(第31章[ルクマーン]13節)。また、アッラーは仰せられた、『まことに、アッラーに同位者を配した者、アッラーは彼には楽園を禁じ給うた』第5章[食卓]72節)。  これらの節において言及されている「シルク(多神教)」は一部のシルクに限定したものではなく、シルク全般を指すもので、明らかなシルクも隠れたシルクも一まとめにしたものである。なぜなら、明白なシルクであろうと隠れたシルクであろうといずれも正真正銘のシルクだからである。「明白なシルク」と言った時には、そのシルクはそれをなす者にはっきりと見て取れるものであり、「隠れたシルク」と言った時には、その本人がそれに気付いていないものであると我々は考えるが、およそこの世のシルクはそのようなものである。多神教徒は、たとえ自分達がアッラーと並べて他の神々を崇拝していたとしても、自分たちが多神教徒であるとは自覚せず、ただ祖先のやり方にしたがっているだけだと考えたり、それらの神々は自分たちをアッラーにより近づけてくれるものだと思い込んでいるからである。クルアーンの中でアッラーが仰せのように、確かに彼らはアッラーに同位者を配しているが、自分達が多神教徒であるとは思っていないのである。もし、明白なシルクはその当人以外には明白で、隠れたシルクの方は本人はそれに気付いていないのであれば、明白なシルクと隠れたシルクの違いはないということになる。なぜなら、隠れたシルクは当人以外の者には明白だからである。したがって、神学者がシルクを2種類に分類しても、アッラーの御許においてはシルクはただ1つなのである。至高なるアッラーは仰せられた、『己の主の拝謁を願う者は善行をなせ、そして、己の主の崇拝行為になにものをも並び置いてはならない』(第18章[洞窟]110節)。「崇拝行為」とは、信念とことばと行為のことである。「なにものをも(アハド)」は否定文で用いられる非限定の名詞であり、およそ考えられうるもの、感知されうるものすべてを含み、したがって明白なシルクも隠れたシルクも含意する。明白なシルクとは、アッラーのほかにも人間が崇拝するに値する別の主がいる、あるいはアッラーの諸特徴のうち一つでも同じ特徴を持ったり、アッラーの諸行為のうち一つでも同じ行為をなしたり、彼の御名のうち一つでも同じ名を持ったり、彼の裁定のうちのなんらかのものを下すものがアッラーのほかにいるという信念が自分自身、あるいは自分以外の者の目に明白なものである。一方、隠れたシルクとは、そうした信念が自分自身からも隠れているものである。彼がそのようなシルクにあるのは、心が不注意であるためである。自己認識おいて不注意な者は、存在や、聴力、視力、知、生命、力、意志のような全ての属性において、あるいは英断者、高貴者、繊細者、知者のような全ての名において、あるいは崇拝行為の生成や神命違反の消滅、あるいは単独で個別にクルアーンとスンナの規定の下に入るような事柄に対してハラームやハラールと断定するような全ての判断において、自分がアッラーの共同者であると思い込んでいるではないか。それによって、そうした者は自分の置かれている状態について不注意であり、その実体に気づいていないのである。彼は自分が、至高なるアッラーと並び、アッラーの属性で形容され、神名で呼ばれ、自分は自分から生ずる業と判断が属する別の存在者であると思い込んでいる。というのは、そうした者は、我々が述べたことに気づき、自分自身で自分を客観してそれに気づき、一般論としては我々が述べたことを至高なるアッラーに関係付け、自分に対してはそれを関係付けないと言い張る。しかし、それはその者が、(存在、属性、神名、業を神と自分に)「関係付ける」ということがどういうことなのか分かっていないからである。それは丁度、ある場所に敵から身を隠しているところに、自分を探している敵がやって来て自分を見つけなかったのに、その敵が自分を見つけるのではと恐れるあまり、敵に「私はこの場所にはいない」と言ったせいで、その敵がそのことばを聞きつけ彼を捉えたにもかかわらず、自分が声を出したことによって敵に(自分の隠れ場を)教えたことに気付かない者のようなものである。同じようにその者も、我々が彼についてそうであると述べたことに考えをめぐらせてそれを誤解し、それ(誤解したもの)を自分で自分について否定するのであるが、その時、その否定においてそれを肯定していながら、万世の主に帰依するに至るまで気が付かない。そして、たとえ気が付いて万世の主に帰依したとしても、その時も万世の主に帰依するに至るまで気が付かないままに、それにおいて隠れたシルクを犯しているのであり、それはその者が自分自身で気付くのでなく至高なるアッラーが彼を気付かせ給い、その者が自分自身で至高なるアッラーに帰依するのではなく至高なるアッラーが彼をアッラーに帰依させ給うまでずっとそうなのである。その時に至れば、それにおいてそれは至高なるアッラーから至高なるアッラーによってその者の中にそれが生ずるのであって、その者自身からその者によってそれが生ずるのではなく、その者がそれを自分自身で生じさせるのでなくそれを自分の中に見出すのである。預言者アッラーの祝福と平安あれ)は言われた。「真実在の息吹の恵みを待ち受けなさい。至高なるアッラーにはお前たちの生涯の日々の中に息吹の恵みがあるのだから。」 「待ち受け」とは、準備、障害の除去に他ならず、その基礎は、宗教の何事についても僕(しもべ)に抗う妄念が残らないほどまでの理性と感覚から隠れた事象への信仰と、それに対する内面と外面における絶対帰依であり、真実在と被造物への対応における命令と禁止からなる聖法の礼節による修身である。そうすれば終にはその者の心からその主の臨在にまで労苦なく魅せる者を見出し、「真実在による魅惑の一つは人間とジン全ての(善の)行為に匹敵する」と預言者アッラーの祝福と平安あれ)が言われた神的魅惑の境地に入る。その時、その者は至高なる真実在の取り計らいの中に入り、取り計らいにおいて自らの身を引き、隠れたシルクも明らかなシルクも免れて、タウヒード唯一神崇拝)の徒の集団に入る。そして選択を奪われて魅惑の境地に留まるか、元の境地に戻るかのいずれかである。その者の選択の状態における選択の剥奪は、「知り、知らず」、「存在し、存在せず」、「行為し、行為せず」という彼の混乱の諸中心を占める。このようにそうした者の心境の全ては互いに矛盾しており、その矛盾の中に一致そのものがあるのである。至高者は仰せられる、『汝が投げた時、汝が投げたのではない。そうではなくアッラーが投げ給うたのである』(第8章[戦利品]17節)。僕(しもべ)は投げていなかったが投げたのと同じように、存在していないが存在しているのである。  それゆえ知りなさい。あなたが理解の徒であるなら、錯覚の幻惑を警戒せよ。