解説
『やさしい神さまの話』の元になった『タウヒードについての書簡(Ris±lah fµ al-TawƵd)』の著者アルスラーン・ブン・ヤークーブ・アル=ディマシュキーはダマスカスで没したイスラーム学者ですが、その生涯については殆ど何も知られていません。没年についてさえイスラーム暦540年から711年まで諸説あります。彼が導師を勤めてイスラーム学を講じたモスクに隣接する廟内の墓碑銘には540没と刻まれていますが、『アラブ著述者総覧(MuÔjam al-MuÕallifµn)』にはイスラーム暦699年(西暦1300年)没と記されています。 しかし彼はその『タウヒードについての書簡』によってイスラーム学の歴史に名を残しています。同書は邦訳でA4の用紙で3枚足らず小品ながら、多くの注釈書が著されています。そのうちザカリーヤーゥ・アル=アンサーリー(926/1520年没)の注釈『大慈者の開示の書(Kit±b FatÆ al-RaÆm±n)』とアリー・ブン・アティーヤ・アラワーン・アル=ハマウィー(939/1530年没)の注釈 『大慈者の開示の注釈(SharÆ FatÆ al-RaÆm±n)』はムフタル・ホランドによる英訳が出版されています。(Shaikh Walµ Rasl±n Ad-dimashqµ, Concerning the Affirmation of Divine Oneness, 1997, Al-baz Publishing, Florida)『やさしい神さまの話』はアブド・アル=ガニー・アル=ナーブルスィー(1143/1731年没)による同書の注釈書『酒屋の芳香と器楽の音色 - アルスラーン師の論考の注釈(Khumrah al-űn wa-Rannah al-AlƱn - SharÆ Ris±lah al-Shaikh Arsl±n, 1997, Makabah al-Q±hirah, Cairo) 』を下敷きとした翻案です。 アル=ナーブルスィーはオスマン朝時代に活躍したイスラーム学者で、クルアーン解釈学、イスラーム神学、法学、神智学などイスラーム諸学の領域で数百点の作品を残していますが、イブン・アラビー(638/1240年没)とその追従者たちによる「存在一性論(waÆdah al-wuj¹d)」の神智学説の擁護者としても有名です。『酒屋の芳香と器楽の音色 - アルスラーン師の論考の注釈』は「存在一性論学派の神智学者としてのアル=ナーブルスィーの特色が色濃く出た作品です。アル=ナーブルスィーの廟はダマスカスのサーリヒーヤ地区にあり、現在も多くの参詣者を集めています。 私たちが『タウヒードについての書簡』の読了免状をいただいたユースフ・アル=バッフール・アル=ハサニー先生はレバノン出身でアズハル大学シャリーア学部を卒業した後、永年カナダでイスラームの普及に努めたイスラーム学者ですが、アブドゥ・アル=カーディル・イーサーに師事したシャーズィリーヤ教団の導師でもあります。 本書の目的は、イスラーム学の神智学の伝統の中で育まれてきた信仰の言葉を現代日本語に移し、その神髄を日本の同胞たちに伝えることにあります。 主が私たちの拙い業を嘉し、本書を手にされた読者諸賢を祝福し給いますように。アーミーン
あとがき
おまえのすべては隠れたシルク(多神崇拝)であり、おまえがおまえ自身から抜け出さない限り、おまえのタウヒード(アッラーこそ唯一なる御方とすること)を彼(アッラー)が明かし給うことはない。ゆえに、おまえが(おまえから抜け出すことにおいて)誠実であればあるだけ、彼は、彼こそがおられ、おまえではないことを開示し給う。そして、おまえはおまえの罪の赦しを乞う。 おまえがアッラーに唯一性を帰す度、おまえにシルクが明らかとなり、それゆえおまえは彼への唯一崇拝と信仰を毎時毎刻新たにする。また、おまえが彼ら(他者)から抜け出す度、おまえの信仰は増し、おまえがおまえから抜け出す度、おまえの確信は強まる。 欲望と勤行のとりこよ、階梯と開示のとりこよ、おまえは欺かれている。おまえは彼を離れて自分に専心している。おまえの自分自身を離れての彼への専心はどこへいったのか。威力比類なき彼こそは現世においても来世でもおまえたちと共におられ、目の前におわし、御高覧し給うておられるというのに。おまえが彼と共にいる時、彼はおまえをおまえ自身から覆い給い、一方、おまえがおまえ自身と共にいる時には、彼はおまえを彼に隷属させ給う。 信仰とは、おまえが彼らから離脱することであり、確信とは、おまえがおまえから離脱することである。 おまえの信仰が増えた時、おまえは一つの境地から別の境地に転じさせられ、おまえの確信が増えた時、おまえは一つの階梯から別の階梯に転じされられる。 聖法(シャリーア)はおまえ自身のために、おまえが自分のために至高なる御方を彼ご自身から彼によって求めるよう作られたものであるが、真理(ハキーカ)は彼ご自身のもので、おまえが威力比類なき御方を彼ご自身によって彼ご自身のために、「いつ」も「どこで」もなしに求めるためである。聖法とはいくつもの境界といくつもの方向であるが、真理には境界もなければ方向もないからである。 聖法にのみよって立つ者は努力を賜り、真実によって立つ者は恩寵を賜る。努力と恩寵の間の開きは大きい。努力と共に立つ者は存在しているが、恩寵と共に立つ者は抹消されている。 諸行為は聖法にかかわり、タワックル(一任)は信仰にかかわり、タウヒードは正しい開示にかかわっている。 人々は理性によって真実から道を踏み外し、欲望によって来世から道を踏み外すのである。それゆえ、おまえが真実を理性によって求めたなら、おまえはすでに迷いに陥っているのであり、来世を欲望によって求めても、また迷いに陥っているのである。 信仰者はアッラーの光で眺め、真知者は彼によって彼を眺めるのである。 おまえがおまえと共にある限り、われらはおまえに命じるが、おまえがおまえから消え去ったなら、われらはおまえを後見しよう。そして彼らが消滅した後でなければ、彼が彼らの後見し給うことはない。 おまえがおまえである限り、おまえは求める者であるが、彼がおまえをおまえから消滅させたなら、おまえは求められる者となろう。 最も永続する確信はおまえのおまえからの不在と、おまえの彼による存在のうちにある。 彼のご命令によってある者と彼ご自身によってある者の間の隔たりはいかばかりか。おまえが彼のご命令によって立てば、あらゆる手段がおまえに服すが、おまえが彼によって立つなら、万物がおまえの自由自在となる。 諸階梯の最初は、彼の望み給うものに対する忍耐である。その中間は、彼の望み給うものに対する満悦である。その最終は、おまえが彼が望み給うものによってあることである。 知識は行為の道であり、行為は知識の道である。そして、知識は真知の道であり、真知は開示の道であり、開示は消滅の道である。 おまえの中にわれら以外のものに対するものが残っている限り、おまえはわれらに適さない。おまえが他のもの一切を引き離したなら、われらはおまえをおまえから消滅させよう。そうすれば、おまえはわれらに適したものとなり、われらはわれらの秘密をおまえに託す。おまえにおまえ自身のための動きが残らずなくなった時、おまえの確信は完成し、おまえにおまえ自身の許での存在が残らずなくなった時、おまえのタウヒードは完成する。 内面の者たちは確信と共にあり、外見の者たちは信仰と共にある。確信を持った者の心が動くなら、彼の確信には欠けるところがあり、彼にどんな心の揺れ動きも起こらなければ、彼の確信は完成している。信仰を持った者の心がご命令なしに動くなら、彼の信仰には欠けるところがあり、ご命令によって動くなら、彼の信仰は完成している。 確信の民の反逆行為は不信仰であるが、信仰の民の反逆行為は(信仰の)不足である。畏れ身を守る者は努力する者であり、愛する者は拠り頼む者であり、真知を得た者は落ち着いた者であり、存在する者は抹消された者である。畏れ身を守る者に静謐はなく、愛する者に決意はなく、真知者に動きはなく、抹消された者に存在はない。 確信の後でなければ、愛が生じない。真に愛する者、その心は彼以外のものを空にしている。彼に彼以外のものへの愛が残っている限り、彼は愛において欠ける者である。苦難に喜ぶ者は存在し、恩恵に喜ぶ者は存在する。だが、われらが彼らから彼らを消滅させた時、苦難と恩恵に喜ぶ気持ちは消え去る。愛する者、その吐息は英知であるが、愛された者、その吐息は力である。 崇拝行為はさまざまな代償のためであり、愛は近接のためである。われは正しきわがしもべたちに目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に浮かんだこともないものを用意した。彼らが、わがためにわれを望んだことに対し、われは彼らに目が見たこともなく、耳が聞いたこともないものを与える。 われらがおまえを英知によっておまえの欲望から消し去り、知識によっておまえの意志から消し去った時、おまえはおまえになんの欲望もなく、意志もない純粋なしもべとなった。そして、その時、彼はおまえ自身からおまえに対し開示し給う。そして、その時、しもべ性は唯一性の中に消滅する。しもべは消え、至高なる主が残り給う。 聖法はみな締め付けであり、知識はみな開放であり、真知はみな指示である。 われらの道、そのすべては愛であり、行為ではなく、消滅であり、残存ではない。おまえが行為に入った時にはおまえはおまえのものである。だが、おまえが愛に入った時、おまえは彼のものとなる。崇拝者は彼への崇拝行為のために彼を見るが、愛する者は彼への愛のために彼を見る。 おまえが彼を知った時、おまえの吐息は彼と共にあり、おまえの動きは彼のものとなる。だが、おまえが彼を知らなければ、おまえの動きはおまえのものである。 崇拝者に静謐はなく、禁欲者に願望はなく、篤信者に依存はなく、真知者に境地はない。また、彼には力も選択も意志も動きも静止もまたない。 存在者、彼には存在はない。 もしおまえが彼と親しんだなら、おまえはおまえ自身を疎ましく思うであろう。 己のためにわれらに専心する者があれば、われらは彼の目を見えなくし、われらゆえにわれらに専心する者にはわれらは彼の目を見えるようにしよう。 おまえの欲望が途絶えた時、彼はおまえに真実の扉を開き給う。そして、おまえの意志が消え去った時、彼はおまえに唯一性を開示し給い、おられるのは彼であり、おまえは彼と共にあるのではない、ということが彼によって真実のものとなる。 もしおまえが彼に委ねるなら、彼はおまえを近づけ給い、もしおまえが彼に抗えば彼はおまえを遠ざけ給う。おまえが彼によって彼に近づくなら、彼はおまえを近づけ給うが、もし、おまえがおまえによって彼に近づくのであれば、彼はおまえを遠ざけ給う。また、もしおまえが彼を己のために求めたなら、彼はおまえに負担を課し給うが、もしおまえが彼ゆえに彼を求めたのであれば、彼はおまえを導き給う。おまえの近接とは、おまえのおまえからの離脱であり、おまえの疎遠とは、おまえがおまえの許に留まることである。もしおまえがおまえなしでやって来たなら、彼はおまえを受け入れ給う。だが、もしおまえがおまえと共にやって来るなら、彼はおまえを遮り給う。 行為者は、己の行為を見ることから抜け出そうとしない。それゆえ、恩寵の方からあり、行為の方からあろうとしてはならない。おまえが彼を知れば、おまえは静まるが、おまえが彼を知らないなら、おまえは動く。目的は彼があらせられることであり、おまえがあることではない。 凡夫の諸行為は懸念であり、選良の諸行為は近接であり、選良の選良の諸行為は階梯である。おまえがおまえの欲望を避ける度、おまえの信仰は強まり、おまえがおまえそのものを避ける度、おまえのタウヒードは強まる。 被造物は覆いであり、おまえもまた覆いである。真実なる御方は覆われてはいない。おまえによっておまえから身を隠し給うておられるのである。また、おまえは彼ら(他者)によっておまえから覆われている。それゆえ、おまえから身を切り離すがよい、そうすれば、おまえは彼を目撃するであろう。ワッサラーム(平安あれ)。
著者の前書き
この翻案を始めるきっかけを作ったのは、わたしの姪でした。ヴィザの話をしたのも、当時不登校気味だった姪が自分の居場所を見つけあぐねているのかと思ったからでした。彼女は、実家のすぐ近くに住んでいて、わたしが里帰りする度「ありがたい話」をせがむ彼女の母親とは別のムスリマの妹と一緒に小学校に上がる前からわたしのイスラームの話を聞くのを楽しみにしてくれていました。 ある年の冬、わたしは、わたしの先生(アッシャイフ・ユースフ・ムヒーユッディーン・アル=バッフール)からこの本を紹介され、一緒に読み、その直後に里帰りした際、話の素材に取り上げることを思いつきました。 今、読み直してみると最初から終わりまで著者の言わんとすることはただ一つ、あらゆる二元論を退けてタウヒード(神の唯一性)の中に没入する、ということです。最初に出てくるペアの話もヴィザの話も原著にはまったく出てきません。数回の連載を進めるうちにほぼ原著に忠実に沿った内容に変わっています。最初の部分を新たに書き直そうかとも思いましたが、せっかくなので元のままに残すことにしました。 ここに書かれたことは、理屈ではわかっても実際にそれを生きることは極めて困難でしょう。神の恩寵に触れ、そのような瞬間を味わう時を神の御許に召される前に知ることができるよう祈るばかりです。 なお、タイトルの「やさしい」は「神さま」ではなく、「話」にかかります。やさしいことばでタウヒードを解説したものですが、その内容は「やさしい」どころか、非常に難解です。やさしい表現に誘われて、ひとつひとつゆっくりゆっくり味わいながらお読みください。
序文
知れ、―アッラーがおまえにすべての良きことを教え給い、一挙一動において過ちから守り給いますように― アッラーに対するシルク(多神教) ―罪の中でももっとも忌まわしく、恥ずべき行為のうちもっとも汚れたこの行為からの守護をアッラーに求めます― をアッラーは決して赦し給わないことを。たとえ、前髪を掴む日(審判の日)にそれ以外の反逆行為をみな赦し給うたとしてもである。 至高なるアッラーは仰せられた、『まことにアッラーは、彼に同位者を配すことは赦し給わないが、それ以外のものはお望みの者には赦し給う』(第4章[女]48節)。また、次のようにも仰せられた、『アッラーに同位者を配す者は、空から落ちて鳥がさらったか、風が遠いところに吹きさらったかのようである』(第22章[ハッジ]31節)。また、アッラーは、ルクマーンが息子に訓戒して次のように語ったと述べ給うた、『息子よ、アッラーに同位者を配してはならない。まことに多神教ははなはだしい不正である』(第31章[ルクマーン]13節)。また、アッラーは仰せられた、『まことに、アッラーに同位者を配した者、アッラーは彼には楽園を禁じ給うた』第5章[食卓]72節)。 これらの節において言及されている「シルク(多神教)」は一部のシルクに限定したものではなく、シルク全般を指すもので、明らかなシルクも隠れたシルクも一まとめにしたものである。なぜなら、明白なシルクであろうと隠れたシルクであろうといずれも正真正銘のシルクだからである。「明白なシルク」と言った時には、そのシルクはそれをなす者にはっきりと見て取れるものであり、「隠れたシルク」と言った時には、その本人がそれに気付いていないものであると我々は考えるが、およそこの世のシルクはそのようなものである。多神教徒は、たとえ自分達がアッラーと並べて他の神々を崇拝していたとしても、自分たちが多神教徒であるとは自覚せず、ただ祖先のやり方にしたがっているだけだと考えたり、それらの神々は自分たちをアッラーにより近づけてくれるものだと思い込んでいるからである。クルアーンの中でアッラーが仰せのように、確かに彼らはアッラーに同位者を配しているが、自分達が多神教徒であるとは思っていないのである。もし、明白なシルクはその当人以外には明白で、隠れたシルクの方は本人はそれに気付いていないのであれば、明白なシルクと隠れたシルクの違いはないということになる。なぜなら、隠れたシルクは当人以外の者には明白だからである。したがって、神学者がシルクを2種類に分類しても、アッラーの御許においてはシルクはただ1つなのである。至高なるアッラーは仰せられた、『己の主の拝謁を願う者は善行をなせ、そして、己の主の崇拝行為になにものをも並び置いてはならない』(第18章[洞窟]110節)。「崇拝行為」とは、信念とことばと行為のことである。「なにものをも(アハド)」は否定文で用いられる非限定の名詞であり、およそ考えられうるもの、感知されうるものすべてを含み、したがって明白なシルクも隠れたシルクも含意する。明白なシルクとは、アッラーのほかにも人間が崇拝するに値する別の主がいる、あるいはアッラーの諸特徴のうち一つでも同じ特徴を持ったり、アッラーの諸行為のうち一つでも同じ行為をなしたり、彼の御名のうち一つでも同じ名を持ったり、彼の裁定のうちのなんらかのものを下すものがアッラーのほかにいるという信念が自分自身、あるいは自分以外の者の目に明白なものである。一方、隠れたシルクとは、そうした信念が自分自身からも隠れているものである。彼がそのようなシルクにあるのは、心が不注意であるためである。自己認識おいて不注意な者は、存在や、聴力、視力、知、生命、力、意志のような全ての属性において、あるいは英断者、高貴者、繊細者、知者のような全ての名において、あるいは崇拝行為の生成や神命違反の消滅、あるいは単独で個別にクルアーンとスンナの規定の下に入るような事柄に対してハラームやハラールと断定するような全ての判断において、自分がアッラーの共同者であると思い込んでいるではないか。それによって、そうした者は自分の置かれている状態について不注意であり、その実体に気づいていないのである。彼は自分が、至高なるアッラーと並び、アッラーの属性で形容され、神名で呼ばれ、自分は自分から生ずる業と判断が属する別の存在者であると思い込んでいる。というのは、そうした者は、我々が述べたことに気づき、自分自身で自分を客観してそれに気づき、一般論としては我々が述べたことを至高なるアッラーに関係付け、自分に対してはそれを関係付けないと言い張る。しかし、それはその者が、(存在、属性、神名、業を神と自分に)「関係付ける」ということがどういうことなのか分かっていないからである。それは丁度、ある場所に敵から身を隠しているところに、自分を探している敵がやって来て自分を見つけなかったのに、その敵が自分を見つけるのではと恐れるあまり、敵に「私はこの場所にはいない」と言ったせいで、その敵がそのことばを聞きつけ彼を捉えたにもかかわらず、自分が声を出したことによって敵に(自分の隠れ場を)教えたことに気付かない者のようなものである。同じようにその者も、我々が彼についてそうであると述べたことに考えをめぐらせてそれを誤解し、それ(誤解したもの)を自分で自分について否定するのであるが、その時、その否定においてそれを肯定していながら、万世の主に帰依するに至るまで気が付かない。そして、たとえ気が付いて万世の主に帰依したとしても、その時も万世の主に帰依するに至るまで気が付かないままに、それにおいて隠れたシルクを犯しているのであり、それはその者が自分自身で気付くのでなく至高なるアッラーが彼を気付かせ給い、その者が自分自身で至高なるアッラーに帰依するのではなく至高なるアッラーが彼をアッラーに帰依させ給うまでずっとそうなのである。その時に至れば、それにおいてそれは至高なるアッラーから至高なるアッラーによってその者の中にそれが生ずるのであって、その者自身からその者によってそれが生ずるのではなく、その者がそれを自分自身で生じさせるのでなくそれを自分の中に見出すのである。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた。「真実在の息吹の恵みを待ち受けなさい。至高なるアッラーにはお前たちの生涯の日々の中に息吹の恵みがあるのだから。」 「待ち受け」とは、準備、障害の除去に他ならず、その基礎は、宗教の何事についても僕(しもべ)に抗う妄念が残らないほどまでの理性と感覚から隠れた事象への信仰と、それに対する内面と外面における絶対帰依であり、真実在と被造物への対応における命令と禁止からなる聖法の礼節による修身である。そうすれば終にはその者の心からその主の臨在にまで労苦なく魅せる者を見出し、「真実在による魅惑の一つは人間とジン全ての(善の)行為に匹敵する」と預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が言われた神的魅惑の境地に入る。その時、その者は至高なる真実在の取り計らいの中に入り、取り計らいにおいて自らの身を引き、隠れたシルクも明らかなシルクも免れて、タウヒード(唯一神崇拝)の徒の集団に入る。そして選択を奪われて魅惑の境地に留まるか、元の境地に戻るかのいずれかである。その者の選択の状態における選択の剥奪は、「知り、知らず」、「存在し、存在せず」、「行為し、行為せず」という彼の混乱の諸中心を占める。このようにそうした者の心境の全ては互いに矛盾しており、その矛盾の中に一致そのものがあるのである。至高者は仰せられる、『汝が投げた時、汝が投げたのではない。そうではなくアッラーが投げ給うたのである』(第8章[戦利品]17節)。僕(しもべ)は投げていなかったが投げたのと同じように、存在していないが存在しているのである。 それゆえ知りなさい。あなたが理解の徒であるなら、錯覚の幻惑を警戒せよ。
やさしい神さまのお話
(1)神さまはひとり
(2)創造主
(3)「私がいる」という思い込み
(4)他人からじぶんを解放すること
(5)じぶんからぬけだすこと
雌牛(253〜256)
これらの使徒は、われらが彼らのある者たちを別の者たちよりも優遇した。彼らの中にはアッラーが語りかけ給うた者もあり、ある者たちは彼が位階を高め給うた。また、われらはマルヤムの子イーサーには諸々の明証を与え、彼を聖霊(天使ジブリール)によって支えた。そしてもしアッラーが望み給うたならば、彼らの後の者たちは諸々の明証がそれらの者にもたらされた後に戦い合いはしなかったであろう。だが、彼らは分裂し、彼らの中には信仰した物もいれば、また、彼らの中には信仰を拒んだ者いた。そしてもしアッラーが望み給うたならば、彼らは戦い合わなかったが、アッラーはお望みのことをなし給う。(2:253)
信仰する者たちよ、われらがおまえたちに糧として与えたものから(善に)費やせ、取引もなく、友情もなく、執り成しもない日が来る前に。そして不信仰者たち、彼らこそは不正な者である。(2:254)
アッラー、彼のほかに神はない。生き、維持し給う御方。まどろみも眠りも彼をとらえることはない。諸天にあるものも地にあるものも彼に属す。彼の御許可なしに誰が彼の御許で執り成しをなし得ようか。彼らの前にあることも後ろにあることも知り給う。そして彼が望み給うたことを除いて、彼の知識のうちどんなものも彼らにとらえることはできない。彼の玉座は諸天と地を覆って広がり、それら(諸天と地)を支えることは彼を疲れさせない。そして彼は至高にして偉大なる御方。(2:255)
宗教に強制はない。既に正導は迷誤から明らかにされた。それゆえ、邪神たちを拒絶しアッラーを信じる者は切れない最も堅い握りを摑んだのである。アッラーはよく聞きよく知り給う御方。(2:256)
雌牛(249〜252)
そこでタールートが軍たちと共に出征した時、彼は言った。「まことにアッラーはおまえたちを川で試み給う。それでそれを飲む者は私には属さず、それを口にしない者こそ私に属す。ただし、手で一掬いする者は別である」。だが、彼らのうち少数を除き、それから飲んだ。それゆえ彼と彼と共に信仰する者たちが川を渡った時、彼らは言った。「今日、われらにジャールート(ゴリアテ)とその軍隊に対抗する力はない」。自分たちがアッラーとまみえる者であると信じる者たちは言った。「どれだけ(数々)の少ない衆がアッラーの御許可の下、多くの衆に打ち勝ったことか。そしてアッラーは耐える者と共におわせられる」。(2:249)
そして彼らはジャールートとその軍隊に相対すると言った。「われらが主よ、われらに忍耐を注ぎ、われらの足を固め、不信仰の民に対しわれらに勝利を与え給え」。(2:250)
それゆえ彼らはアッラーの御許可の下、彼らを打ち破り、ダーウード(ダビド)はジャールートを殺し、アッラーは彼に王権と英知を授け、彼(アッラー)の御望みのことを彼に教え給うた。もしアッラーが人々を相互に抑制させ給わなければ、大地は荒廃したであろう。だが、アッラーは諸世界への御恵みの持ち主。(2:251)
これはアッラーの諸々の徴で、われらはそれをおまえに真理をもって読み聞かせる。まことにおまえはまさに遣わせれた者たち(の一人)である。(2:252)