日亜対訳クルアーン写経ブログ

(出典元) 中田孝[監修]・中田香織・下村佳州紀[訳]『日亜対訳 クルアーン [付] 訳解と正統十読誦注解』、松山祥平[著・訳]「クルアーン正統十読誦注解」、黎明イスラーム学術・文化振興会[責任編集]、作品社、2014

やさしい神さまのお話

(1)神さまはひとり

 
神さまはひとりです。  神さま以外のものはみな対(つい)になっています。  「対」とは、ペアーのことです。テニスのペアーのように、ふたりで一組になることです。  たとえば、おとうさんとおかあさんは対です。おとうさんひとりでは子供はできません。おかあさんだけでもできません。ふたりがそろってはじめて子供はできます。  人はひとりでは人になれません。むかし、おおかみに育てられた女の子がいました。おおかみに育てられた女の子はおおかみになりました。おおかみのように四つ足で走り、おおかみのように生肉を食べ、もちろん人間のことばは話せませんでした。こどもは、おとなからことばを教えてもらわなければ話せるようにならないのです。だから親と子も対です。  私たちのまわりにはまだまだいろいろな対があります。天と地、太陽と月、昼と夜も対です。  光と陰も対です。陰があるから光の明るさがわかります。大きいと小さいも、大きいものがあるから小さいものは小さく、小さいものがあるから大きいものは大きいのです。片方だけでは大きいのか小さいのかわかりません。善と悪、幸福と不幸も同じです。  電極のプラスとマイナスも対です。プラスとマイナスをつないだ時に電流は流れ、電気がつきます。片方だけでは電気はつきません。  神さま以外のものはこうしてみなペアーになっています。ふたつで助け合っています。  でも、神さまはひとりで、だれの助けもいりません。ひとりですべてのことをやってのけます。  そこが神さまと神さまでないのものとの大きな違いです。
 

(2)創造主

 
 神さまの最も大きな特徴のひとつは、神さまが創造主(そうぞうしゅ)である、ということです。  「創造主」の「創」はつくる、「造」もつくる、という意味です。すべてをなにもないところから作った方、それが創造主です。そして、神さま以外のものはみな作られたものです。  科学の進歩のおかげで今日の人には、昔の人にはできなかったこともできるようになりました。牛の小さな細胞から一頭の牛を作ることにも成功しました。でも、なにもないところから何かを作り出すことは今日の科学にはできません。未来の科学でもできないでしょう。  神さまは作った方であり、神さま以外のものは作られたもの、それが神さまと神さまでないものとの大きな違いです。  作られたものにはかならずはじめがあります。  私たちにはだれでもたんじょうびがあります。生まれた日です。 生まれる前に私たちはどこにいましたか。おかあさんのおなかの中です。小さな血のかたまりだったあかちゃんはおかあさんのおなかの中でぐんぐん大きくなって、10カ月目におぎゃあと泣きながら外に出て来ます。  では、その前にはどこにいたのでしょうか。どこにもいませんでした。その前には私たちは存在(そんざい)していなかったのです。  神さまにはじめはありません。だからたんじょうびもありません。  この世の時間は神さまが作りました。時間を作った神さまは時間の外にいます。ですから、どんなに時間を過去にさかのぼっても、そこには元から神さまがいます。また、どんなに時間を未来に進めても、そこにはずっと神さまがいます。神さまには、はじめもおわりもないのです。  ところで、自動車はどんなふうに作るか知っていますか。自動車を作る時には、まず部品をそろえなければなりません。それからそろった部品を組み立てます。できあがるまでにはとうぜん時間がかかります。  では、神さまがものを作る時はどうでしょうか。神さまがものを作る時には、ひとこと「あれ」と言うだけでおしまいです。神さまが、あれ、と言ったら、それはそこにあらわれます。準備もいらなければ、時間もかかりません。「あれ」と言ったら、あるのです。  「あれ」と言うだけでそれを存在させてしまう神さまは、「あるな」と言えば、たちまちその存在をなくしてしまうこともできます。ですから、私たちが今ここに生きているということは、神さまが私たちを生かそうと望んでいるということです。神さまが望んでいるから私はここにいるのです。  たとえてみるなら、私たちはみな神さまからこの世のヴィザをもらっているということです。ヴィザとは、この国にいてもいいよ、という許可証(きょかしょう)です。許可証がなかったらその国にはいられません。  私たちはだれも、気が付いた時にはこの世にいます。なんのためだかよくわかりません。なんでこんな顔をして、なんでこんな頭をして、なんでこんな性格なのかわかりません。でも、いるということは、神さまが、それでいいんだよ、そのなりでそこにいたらいいんだよ、と許可証を出してくれているということです。  それはつまり愛の印です。神さまが私を愛しているという印なのです。だから、いる必要のない人とか、まちがってそこにいる人とかはひとりもいません。  許可証には「いついつまで有効」という期限があって、その期限がきたら許可証は神さまに返さなければなりません。でも、その時まではだれに遠慮することなく、いばってそこにいたらいいのです。
 

(3)「私がいる」という思い込み

 
 神さまが「あれ」と言ったらあり、「あるな」と言ったら消えてしまう私たちの存在は、はかないものです。私たちは神さまが望んだから生まれ、神さまの助けにささえられて生きています。ひとりで生きている人はだれもいません。  私たちは息をすったりはいたりしていますが、それはじぶんでやっていることではありません。心臓はドキンドキン動いていますが、それもじぶんで動かしているのはありません。みな神さまがしていることです。そして、神さまが、やーめた、と思えば、心臓は動くのをやめ、息はとまってしまうのです。  ですから、ほんとうの意味で存在しているのは、神さまだけです。じぶんが存在していると思ったら、それは神さまの特徴を持っていないのに持っていると主張するのと同じことです。  アラビア語で会社のことを「シャリカ」といいます。会社とは人と人が協力して一緒になにかをするところです。神さまはひとりでなんでもできます。仲間はいりません。その神さまに仲間を並べ、神さまと同じような力をもったものが他にもいると考えることを「シルク」といいます。日本語でいうと、「多神教」です。  たとえ、あなたがただおひとりの神さまを信じていたとしても、神さまと並んでじぶんも存在していると思うなら、あなたはシルクをおかしています。黒い岩のうえを這うアリよりももっと気づきにくい「かくれたシルク」です。  でも、だったら、私たちは存在していないということですか。ここにいる私はまぼろしなのですか。  いいえ、そういうことではありません。私たちはちゃんといます。でも、いると思った次の瞬間に天井がおちてきて死んでしまうかもしれません。あるいは、車にポーンとはねとばされて死んでしまうかもしれません。いつだって私たちは死と背中あわせです。  神さまは違います。神さまはいつだっています。ずっと前から存在し、これからもずっと存在します。そんな神さまの存在の確かさにくらべたら、私たちは存在しているなんてとても言えない、ということです。  じぶんのはかなさを忘れてじぶんが存在していると思うことは、じぶんが神さまのようだと思うことです。ですから、神さまの唯一性、つまり、神さまがたったひとりだということを知るためには、まず「私がいる」という思い込みからぬけださないといけません。  じぶんからぬけだせば、存在しているのは神さまで、じぶんではないということがはっきりしてきます。そして、じぶんが存在していると思っていたことがどんなに思い上がったことだったか、どんなに神さまへの感謝を忘れた行為だったかに気づきます。  私たちが一日になんども「アスタグフィルッラー(アッラーにお赦しを求めます)」と言わなければならないのはそのためです。ものをぬすんだり、人をきずつけたり、うそをついたりしなくても、知らないうちにうっかりじぶんが神さまみたいになった気でいるからです。
 

(4)他人からじぶんを解放すること

 
 私たちの多くは他人のとりこになっています。「とりこ」とは、つかまえられて、自由に動けないことです。  こんなことをしたら人はどう思うだろうか、人はほめてくれるだろうか、それとも人に笑われるだろうか。こんな時、みんなだったらどうするだろうか、といつも人のことばかりが気になって、じぶんのしたいことができません。それどころか、じぶんがなにをしたいのかもわからなくなってしまいます。他人の意見にふりまわされ、他人の目にうつるじぶんのすがたが気になるあまり、ほんとうのじぶんが見えなくなってしまうのです。  ですから、ほんとうのじぶんを見いだすためには、他人からじぶんを解放しなければなりません。他人の意見や他人の評価)から自由になるのです。他人の目でじぶんを見るのをやめた時、私には私のほんとうのすがたが見えてきます。じぶんと人をくらべてもしかたがないこと、私には私に神さまがくれた私の良さがあることに気づくのです。  ほんとうのじぶんをじっと見つめたら、そこに神さまの存在のしるしがあることが見えてきます。私がいるということが神さまのいるしるしなんだということがわかってきます
 

(5)じぶんからぬけだすこと

 
 他人から解放されて、ほんとうのじぶんが見つかったら、こんどはそのじぶんからぬけ出さなければなりません。じぶんにとらわれていたら、神さまは見えてこないからです。  たとえば、私たちは、「私の手」といいますが、私の手は私がつくったのでも、私が見つけたものでもありません。神さまがつくって、神さまがくれたものです。  私たちが私のものと思っているものは、すべて神さまからのもらいものです。  私には手がありますが、手のない人もいます。私に手があるのは私のせいではなく、その人に手がないのはその人のせいではありません。どちらも神さまが決めたことで、神さまが望んだから私には手があり、神さまが望んだからその人には手がないのです。私の手だって、神さまが望んだら動かなくなってしまうかもしれません。神さまがくれたものですから、神さまがとりあげても私には文句はいえません。  手だけではありません。お金もそうです。私のもっているものはみんなそうです。もともと私のものなどなにもないのです。そのことに気づいた時、私たちは神さまの大きな愛に気づきます。  なぜなら、私がもっているものは元はみんな神さまのもので、神さまが私に特別に使うことをゆるしてくれたものだからです。  私がもっているものは、あの人がもっているものとくらべて小さいかもしれません。でも、小さくても神さまはそれをあの人ではなくて私に特別にくれたのです。すべては、神さまから私への特別の贈り物です。そのひとつひとつが神さまからの愛のしるしです。そのことに気づけば、どんなに感謝しても感謝したりないことがわかるでしょう。  じぶんが、じぶんのものなどひとつもない、小さくて弱い存在)であることに気づいた時、私たちは神さまの大きさに気づきます。  私たちはおいのりをする時に地面にひたいをつけます。私たちは土から作られました。そして土にもどります。王様だろうとこじきだろうと同じです。地面にひたいをつけた時、私たちはじぶんが土くれにすぎないことを思いだし、じぶんがどんなに小さな存在かを知ります。そして、それを知った時、一番大きな神さまに一番近づくのです。