日亜対訳クルアーン写経ブログ

(出典元) 中田孝[監修]・中田香織・下村佳州紀[訳]『日亜対訳 クルアーン [付] 訳解と正統十読誦注解』、松山祥平[著・訳]「クルアーン正統十読誦注解」、黎明イスラーム学術・文化振興会[責任編集]、作品社、2014

あとがき

おまえのすべては隠れたシルク(多神崇拝)であり、おまえがおまえ自身から抜け出さない限り、おまえのタウヒードアッラーこそ唯一なる御方とすること)を彼(アッラー)が明かし給うことはない。ゆえに、おまえが(おまえから抜け出すことにおいて)誠実であればあるだけ、彼は、彼こそがおられ、おまえではないことを開示し給う。そして、おまえはおまえの罪の赦しを乞う。  おまえがアッラーに唯一性を帰す度、おまえにシルクが明らかとなり、それゆえおまえは彼への唯一崇拝と信仰を毎時毎刻新たにする。また、おまえが彼ら(他者)から抜け出す度、おまえの信仰は増し、おまえがおまえから抜け出す度、おまえの確信は強まる。  欲望と勤行のとりこよ、階梯と開示のとりこよ、おまえは欺かれている。おまえは彼を離れて自分に専心している。おまえの自分自身を離れての彼への専心はどこへいったのか。威力比類なき彼こそは現世においても来世でもおまえたちと共におられ、目の前におわし、御高覧し給うておられるというのに。おまえが彼と共にいる時、彼はおまえをおまえ自身から覆い給い、一方、おまえがおまえ自身と共にいる時には、彼はおまえを彼に隷属させ給う。  信仰とは、おまえが彼らから離脱することであり、確信とは、おまえがおまえから離脱することである。  おまえの信仰が増えた時、おまえは一つの境地から別の境地に転じさせられ、おまえの確信が増えた時、おまえは一つの階梯から別の階梯に転じされられる。  聖法(シャリーア)はおまえ自身のために、おまえが自分のために至高なる御方を彼ご自身から彼によって求めるよう作られたものであるが、真理(ハキーカ)は彼ご自身のもので、おまえが威力比類なき御方を彼ご自身によって彼ご自身のために、「いつ」も「どこで」もなしに求めるためである。聖法とはいくつもの境界といくつもの方向であるが、真理には境界もなければ方向もないからである。  聖法にのみよって立つ者は努力を賜り、真実によって立つ者は恩寵を賜る。努力と恩寵の間の開きは大きい。努力と共に立つ者は存在しているが、恩寵と共に立つ者は抹消されている。  諸行為は聖法にかかわり、タワックル(一任)は信仰にかかわり、タウヒードは正しい開示にかかわっている。 人々は理性によって真実から道を踏み外し、欲望によって来世から道を踏み外すのである。それゆえ、おまえが真実を理性によって求めたなら、おまえはすでに迷いに陥っているのであり、来世を欲望によって求めても、また迷いに陥っているのである。  信仰者はアッラーの光で眺め、真知者は彼によって彼を眺めるのである。  おまえがおまえと共にある限り、われらはおまえに命じるが、おまえがおまえから消え去ったなら、われらはおまえを後見しよう。そして彼らが消滅した後でなければ、彼が彼らの後見し給うことはない。  おまえがおまえである限り、おまえは求める者であるが、彼がおまえをおまえから消滅させたなら、おまえは求められる者となろう。  最も永続する確信はおまえのおまえからの不在と、おまえの彼による存在のうちにある。 彼のご命令によってある者と彼ご自身によってある者の間の隔たりはいかばかりか。おまえが彼のご命令によって立てば、あらゆる手段がおまえに服すが、おまえが彼によって立つなら、万物がおまえの自由自在となる。  諸階梯の最初は、彼の望み給うものに対する忍耐である。その中間は、彼の望み給うものに対する満悦である。その最終は、おまえが彼が望み給うものによってあることである。  知識は行為の道であり、行為は知識の道である。そして、知識は真知の道であり、真知は開示の道であり、開示は消滅の道である。  おまえの中にわれら以外のものに対するものが残っている限り、おまえはわれらに適さない。おまえが他のもの一切を引き離したなら、われらはおまえをおまえから消滅させよう。そうすれば、おまえはわれらに適したものとなり、われらはわれらの秘密をおまえに託す。おまえにおまえ自身のための動きが残らずなくなった時、おまえの確信は完成し、おまえにおまえ自身の許での存在が残らずなくなった時、おまえのタウヒードは完成する。  内面の者たちは確信と共にあり、外見の者たちは信仰と共にある。確信を持った者の心が動くなら、彼の確信には欠けるところがあり、彼にどんな心の揺れ動きも起こらなければ、彼の確信は完成している。信仰を持った者の心がご命令なしに動くなら、彼の信仰には欠けるところがあり、ご命令によって動くなら、彼の信仰は完成している。  確信の民の反逆行為は不信仰であるが、信仰の民の反逆行為は(信仰の)不足である。畏れ身を守る者は努力する者であり、愛する者は拠り頼む者であり、真知を得た者は落ち着いた者であり、存在する者は抹消された者である。畏れ身を守る者に静謐はなく、愛する者に決意はなく、真知者に動きはなく、抹消された者に存在はない。  確信の後でなければ、愛が生じない。真に愛する者、その心は彼以外のものを空にしている。彼に彼以外のものへの愛が残っている限り、彼は愛において欠ける者である。苦難に喜ぶ者は存在し、恩恵に喜ぶ者は存在する。だが、われらが彼らから彼らを消滅させた時、苦難と恩恵に喜ぶ気持ちは消え去る。愛する者、その吐息は英知であるが、愛された者、その吐息は力である。  崇拝行為はさまざまな代償のためであり、愛は近接のためである。われは正しきわがしもべたちに目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に浮かんだこともないものを用意した。彼らが、わがためにわれを望んだことに対し、われは彼らに目が見たこともなく、耳が聞いたこともないものを与える。  われらがおまえを英知によっておまえの欲望から消し去り、知識によっておまえの意志から消し去った時、おまえはおまえになんの欲望もなく、意志もない純粋なしもべとなった。そして、その時、彼はおまえ自身からおまえに対し開示し給う。そして、その時、しもべ性は唯一性の中に消滅する。しもべは消え、至高なる主が残り給う。  聖法はみな締め付けであり、知識はみな開放であり、真知はみな指示である。  われらの道、そのすべては愛であり、行為ではなく、消滅であり、残存ではない。おまえが行為に入った時にはおまえはおまえのものである。だが、おまえが愛に入った時、おまえは彼のものとなる。崇拝者は彼への崇拝行為のために彼を見るが、愛する者は彼への愛のために彼を見る。  おまえが彼を知った時、おまえの吐息は彼と共にあり、おまえの動きは彼のものとなる。だが、おまえが彼を知らなければ、おまえの動きはおまえのものである。  崇拝者に静謐はなく、禁欲者に願望はなく、篤信者に依存はなく、真知者に境地はない。また、彼には力も選択も意志も動きも静止もまたない。 存在者、彼には存在はない。 もしおまえが彼と親しんだなら、おまえはおまえ自身を疎ましく思うであろう。  己のためにわれらに専心する者があれば、われらは彼の目を見えなくし、われらゆえにわれらに専心する者にはわれらは彼の目を見えるようにしよう。  おまえの欲望が途絶えた時、彼はおまえに真実の扉を開き給う。そして、おまえの意志が消え去った時、彼はおまえに唯一性を開示し給い、おられるのは彼であり、おまえは彼と共にあるのではない、ということが彼によって真実のものとなる。  もしおまえが彼に委ねるなら、彼はおまえを近づけ給い、もしおまえが彼に抗えば彼はおまえを遠ざけ給う。おまえが彼によって彼に近づくなら、彼はおまえを近づけ給うが、もし、おまえがおまえによって彼に近づくのであれば、彼はおまえを遠ざけ給う。また、もしおまえが彼を己のために求めたなら、彼はおまえに負担を課し給うが、もしおまえが彼ゆえに彼を求めたのであれば、彼はおまえを導き給う。おまえの近接とは、おまえのおまえからの離脱であり、おまえの疎遠とは、おまえがおまえの許に留まることである。もしおまえがおまえなしでやって来たなら、彼はおまえを受け入れ給う。だが、もしおまえがおまえと共にやって来るなら、彼はおまえを遮り給う。  行為者は、己の行為を見ることから抜け出そうとしない。それゆえ、恩寵の方からあり、行為の方からあろうとしてはならない。おまえが彼を知れば、おまえは静まるが、おまえが彼を知らないなら、おまえは動く。目的は彼があらせられることであり、おまえがあることではない。 凡夫の諸行為は懸念であり、選良の諸行為は近接であり、選良の選良の諸行為は階梯である。おまえがおまえの欲望を避ける度、おまえの信仰は強まり、おまえがおまえそのものを避ける度、おまえのタウヒードは強まる。  被造物は覆いであり、おまえもまた覆いである。真実なる御方は覆われてはいない。おまえによっておまえから身を隠し給うておられるのである。また、おまえは彼ら(他者)によっておまえから覆われている。それゆえ、おまえから身を切り離すがよい、そうすれば、おまえは彼を目撃するであろう。ワッサラーム(平安あれ)。